こんにちは。紬(つむぎ)です。
この記事をひらいてくださりありがとうございます。
この記事では、私がブログをはじめたきっかけや過去のお話を赤裸々に告白したいと思います。
「誰が興味あんねん!」(←ヤナギブソン)
と、思う方もいらっしゃるかもしれません。
私は大阪府在住で、夫と小学1年生と年中さんの息子がいるアラフォー主婦ですが、結構お金に苦労もしてきました。
もしも少しでも紬(つむぎ)について興味がありましたらどうか最後まで読んでいただければと思います。
(無いと思いますが!笑)
紬(つむぎ)の幼少期!母が特定疾患
私は3姉妹の長女なのですが、私が小学一年生になったばかりの5月頃、母が倒れ救急車に運ばれて入院しました。
そのとき、妹は1歳と4歳です。
母は、血液の難病だと分かりました。
妹ふたりは保育園に行くことになりました。当時は保育園代もふたりで8万くらいかかっていたようです。
今みたいな補助や無償制度がないのでめっちゃ高い。
さらに保育園は仕事している家庭のためのものであり「病気」のために預かることはできません、特別ですからね!と言われたみたいです。
厳しー!
母は入院しているので、保育園には小学1年生の私がお迎えに行きました。
突然入れられた4歳の妹はいつも泣いています。
しかもそんなに背格好が変わらないお姉ちゃんが迎えにくるというのも変だと感じていたようです。
父は機嫌が悪いと、テーブルをひっくり返したりする人でした。
仕事も長続きしません。
いつも職場で喧嘩してすぐ辞めてきます。
その日のうちに辞めてくることもあります。
(ちなみに母は公務員でしたが、”大の大人(おっさん)がずっと家にいる”のはまずいと自分が辞めて専業主婦になったのです。)
父は、入院している母にも、「育児放棄するな!」と病院に怒鳴りこんで無理やり一時退院させたりです。
私と妹で、ある程度家事をこなせるようになりました。
火はダメだといわれましたが、包丁で果物などを切ったりはできます!
妹も椅子に乗ってお皿を洗ってくれます。
(↑4歳です)
洗濯も昔の2槽式の時代です。
全自動ではないんです。乾燥が横にあるやつです。
洗濯はできるけど、干すのが届かないので、低い位置で干していました。
それで、困ったことに学校に着ていく服を選べなくて
毎日同じ服を着て行って笑われたこともありました。
しかもその服が”エリマキトカゲ”をプリントしてあるやつだったんです。
今も覚えてますが恥ずかしー!(笑)
その後、母は途中から通院に切り替わったのですが、父もそんな感じなのでずっとお金に困っていました。
お友達が習い事とかしてると、
スイミングとかお金持ちやん。
ピアノって貴族やんって思ってました。
親戚のおばちゃんがあまりに見かねて、妹を養女に・・・というお話もあったようです。
(母は断りました)
病気×お金がないってホント苦しい。
(病気じゃなくてもお金がないのは苦しいです)
その後、私が高校生の頃、阪神淡路大震災がありました。
その震災でいち早く逃げたのは父です。
家族全員残して。
ブラウン管のテレビも落ちたし、窓も割れたしヒビも入ったので引っ越しすることになりました。
ここからは家族崩壊でもあります。
校区を変わらずに引っ越ししようとするとちゃんと住める家が限られます。一体が被災しています。
家賃もめっちゃ高いけど、なんとか引っ越しをしたんです。
数か月は住んでいたのですが、父が「家族が重い」と言いだし離婚になり、母と子供(私)たちが出ていく形に。
しかしシングルマザーで仕事もしておらず、病気持ちの母に誰が家を貸してくれるのでしょうか。
母は知り合いにお願いをして仕事をさせてもらうことになりました。
でもそのとき、母は面接に行く交通費が無いと泣いていました。
私も高校を卒業と同時に働きました。
就職!顔面神経麻痺に!そして派遣社員で12年!
高校卒業後に建材の代理店に就職して営業事務をしました。
「お金を稼ぎたい」だけでどこに就職するのか分かっていませんでした。
高校卒業間際で就職に切り替えたので先生にすすめられたまま、面接もおじいちゃんみたいな方(←めっちゃ失礼)と雑談するだけで終了。
「はい、これから頑張ってね。」
「パソコンは触れた方がいいよ」
みたいな。
これが私とパソコンとの出会いです。
恐らくWindows97あたり。
(このあと練習のために速攻でパソコンを買ってゲームをしていました笑)
仕事をしはじめて数ヶ月後くらいから、すごく忙しくて夜12時くらいまで仕事をしていたんです。
でも18歳とか19歳だったので全然苦痛じゃありませんでした。
なんなら朝までできちゃうぞ!ってくらい元気でした。
残業代とかももらえないけど、
それまでお金がなかった高校卒業したばかりの人が「お給料」をもらえるなんてそれだけで嬉しいですよね。
美容にお金がかかる訳でもないし、遊ぶと言っても遊び方も知らないですし。
建材もホントは全くの素人で何も知らなかったのですが、家の図面を見るのが楽しいんです。
現場から「2階の洋室Bの窓台がないから早よ持ってきて~」と言われたら、
図面でサイズを確認して、
メーカーや色の確認もして、注文していつ納材できるかお返事したりしていたんですね。
大規模な住宅街となると区画によっては、
一気に100棟とか200棟とか第1期からはじまってめっちゃ続くんです。
内装材と水廻りを納材していたので品種も多めです。
「何号地の吹き抜けの見切り材が足らへんで」とか言われると、
「え~っと4mを2本でギリいけるか」とか考えながら納品していました。
大体同じメーカーのものが使われるし、図面も正直似ているので
完全に仕様を見間違えて、色を全部間違って納材してしまい取り替えたこともあるんです。
(私、失敗しました)
でも学校教育の中にこういうのってなかったから楽しかったんですよね。
今でも不動産の図面とか見てしまうんですが…。
しかしあるとき、右側顔面神経麻痺になってしまったんです。
ストレスが原因です。
何気に朝から「舌がピリピリするな~」と思いながら出社したんですけど、どうも顔に違和感。
たぶんその時点でまぶたを閉じることができにくい状態に。
そういえば朝から歯磨きをしていても横から垂れてた・・・。
それで病院に行ったら、「1週間で治るかもしれないけど一生治らないかもしれない」と言われたんです。
「一生」
という言葉に絶望しました。
その時22歳です。
毎日点滴の日々で、仕事は休職させてもらうことになりました。
会社からの配慮で提案してくださいました。
毎日毎日、風船を膨らます練習です。
全然膨らみません、それどころか、帯状疱疹など合併症も出てきて、
お笑い番組を見ていても全然笑えないし、
笑っても顔が歪むので笑ってるかどうかわかりません。
笑うことをやめました。
それでも3ケ月くらいでかなり治ってきたんです。
私は早く仕事復帰したかったので、病院の先生にも許可をもらって復帰しました!
やった!
しかし1日で休職から退職になりました。
会社に行くと、私がいない間に掃除当番表などがすべて変わっていました。
私の名前がない。
それは仕方ないですよね、いなかったんですから。
居場所がなくなってしまったような、孤独を感じ、さらに自分が仕事を忘れていることとかがあり
「あ~もうやっぱ無理・・・」
行けなくなりました。
そして休職+離職して1年ほどは引きこもっていました。
ホントに人生絶望に感じていたときです。
しかしやっぱり働こうと思って思いついたのが派遣の仕事です。
派遣は3ケ月更新など、更新型なので今の私にはピッタリだと思いました。
そこで紹介されたのが大手メーカーの営業事務です。
パソコンで注文を入力して調整して回答するお仕事です。
自分が3ケ月働けるかどうかわかりませんでした。
しかしみんなお人柄が良すぎて結局12年もいました。。。
「すぐ辞められるから」と思って派遣になったのに12年・・・
すっごく楽しかったのですが、そこでもなんだかずっと劣等感を感じています。
みんな同じような仕事なのに、給料に格差があります。
そりゃみんな大卒か院卒です。
大手メーカーですから。
同じ空間にいることだけでも肩身が狭くて・・・。
でも困っているお客様がいたら「なんとかしてあげたい」って思ってしまうので、
めっちゃ頑張って頑張って、なんとかしてあげられたときは達成感と充実感でいっぱいでした。
商社の方とかとも仲良くなって会社の盆踊りに誘ったり。
東京から大阪へ(もちろん上司にも伝えました)
12年で辞めるときなんですが、もうすでに周りに派遣はほとんどいなくなり、最終的に残っていた私もクビとなりました。
しかし、そのリストラ宣言の間から辞めるまでに結婚して長男がお腹にいたのです。
なので正直ハッピーな退職でした。
このとき35歳です。
ブログをはじめたきっかけは?
私がブログと出会ったときは、下の子がまだ一歳になったころです。
上の子は2歳10ケ月でホントに家の中がもうてんやわんや。いつも誰かが泣いている、いやいや自分が泣きたい!そんな状態でした。
長男を高齢出産で産んでいるので、追いかけるのに必死で瀕死です。
ぎっくり腰でしばらく抱っこができない日々もありました。
喋る相手といえば、家族くらいしかおらず、
まだ幼稚園も始まっていないのでママ友と呼べる人もおらず。。。
その上、お金もどんどんなくなるので働かなければと思ったのがきっかけでした。
そして密かに野望もありました。
「専業主婦で終わりたくない、もっと家族で楽しいこともしたい!」
しかし保育園は空いてない、パートに出たとしても、行事などでなんだかんだ休んだりしないといけない。
職場の顔色を伺いながら、仕事しないといけない・・・。
理不尽だと思いながら選択肢は・・・ない・・・
それでもなんとか月収3万程、自分で稼げないだろうか・・・と思ったのがきっかけです。
ネットビジネスのその後は?
2017年8月からネットビジネスに関わり、
・トレンドブログで月に20万
・日収最高4万を達成
するも、トレンドを追うことに疲れ果てます。
2019年から心機一転、トレンドに終われずに特化サイトを運営。
2020年には月収50万を達成させます。
月間最高PVは120万PV。
累計1500万PV!
https://twitter.com/tumugi_tuki100/status/1466595953402839041
一日の最高PVは128000PV!
ひとつのASPさんから1400件以上のASPが獲得できていました。
https://twitter.com/tumugi_tuki100/status/1394315802975686661?s=20
誤)2018年6月14日
正)2018年6月12日
さらにサイト売却で2021年12月に月収300万となりました。
みなさんのおかげです。
そしてすばらしい環境に身をおきつつ私の経験をみなさんにお伝えしていければいいなと思います。
”紬(つむぎ)”という名前は、
(辞書からひっぱり出してきて)
『紬は見た目は決して派手ではありませんが、耐久性に優れ、着るほどに肌になじんで柔らかくなる織物です。』
紬には物事の糸口を引き出すという意味でもあり、『夢をつむぐ』という意味もあります。
何かお手伝いができたら嬉しいと思います。
さいごに
ここまで読んでくださりありがとうございました。
ホントに嬉しいです。
私の「過去の辛い経験談!お金に苦労してきた話とブログをはじめたきっかけ!」でした!
▼こちらへどうぞ▼